免疫学の今 ~ キマイラの実現へ:異種移植③ ~

2023.12.01

異種移植の未来

「そうよ。わたしのおばさんもこの間、ぶたの肝臓を移植したのよ」
(略)「そんなこと、当たり前のことよ」

 これは1997年に出版された小林泰三さんの短編小説『人獣細工』の中の一遍です。脳死や生体臓器移植が過去のものとなり、動物からヒトへの異種移植が一般的になった世界で、ブタの臓器移植の初期の成功例である患者が主人公というホラー小説です。極端ではありますが、身体の大部分がブタの臓器に挿げ替えられ、最終的に人間の部分がほとんどなくなってしまっても人間と言えるのかといった人間の定義の問題、急速な科学技術の発達に伴って生じた「生命をどこまでコントロールしてよいのか」という医療倫理の問題も含め、20年以上前の作品ですが、未知の医療に対する人間の懸念や憂慮を感じさせます。ブタの異種心移植のニュースを見た方々の中には、そういった不安を本能的に感じた方もいるのではないでしょうか。前述したブタウイルスの問題もそうですが、異種移植には医療やテクノロジーの発達に伴う社会的影響や道徳的問題にも十分配慮していかなければなりません。そして、異種移植と切っても切り離せない動物愛護の問題も依然存在しています。かつて1984年にベビー・フェイ*1の手術を行った病院は、人間を救うためにヒヒをドナーとして用いたことに対する抗議の手紙を1万3000通も受け取ったそうですが、一方でヒヒの心臓を移植することが人間の新生児への虐待だと抗議した手紙はわずか75通だったといいます。ドナーとなる動物たちは人間の命を救うために人道的に安楽死させられるまでは確かに快適とされる環境で飼育されてはいますが、だからといってそれが人間のために動物の命を奪ってよい理由になるのかはとても難しい問題です。

 実際に異種移植が実用化され一般に普及するのはまだ先の話だと思われますが、移植を必要とする患者さんの数は年々増え続け、日本では特にこの10年で心臓の需要が急激に増加しました。要因の一つとして、補助人工心臓などの医療機器や医療の進歩によって待機できる期間が延びたがゆえの、テクノロジーの進歩が原因とされています。今後、延命治療の発達によってますます移植需要が伸び、ただでさえ足りていないドナー不足の問題はますます深刻となる可能性があります。将来、異種移植が実現すれば、移植しか手立てのない患者さんがドナー不足によって亡くなっていくこの現状は劇的に改善されていくことでしょう。今回の心移植に用いたブタを開発したレヴァイヴィコアの親会社ユナイテッド・セラピューティクス社のHPでは、同社の近未来的な将来像を見ることができます。臓器のモニュメントらしき建造物を背景に、水に浮かぶ数々の移植用臓器の研究施設、臓器運搬用なのか、空飛ぶ何機ものドローンなど、まるでSF映画のような世界観です。古代人の空想の産物であったキマイラは科学技術の発達とともに単なる空想ではなくなり、フィクションとノンフィクションのギャップは刻一刻と埋まりつつあります。かつて遠い未来と思われた世界は、もう私たちの目の前まで迫ってきているのです。

移植免疫学の聖杯

 異種移植と免疫寛容は移植免疫学者や外科医にとって長年にわたる聖杯*2だと言われています。免疫抑制剤の使用によって移植の予後は飛躍的に延びましたが、その副作用は深刻で、感染症や発がんリスク、移植臓器以外の部位への障害が発生する可能性を含みます。免疫寛容が誘導できれば、免疫抑制剤を使用せずとも移植の拒絶反応に悩まされることはなくなり、さらには、異種移植における超急性拒絶さえも阻止できるのではないかと考えられ、2000年ごろまでは異種移植の手段の探求よりも、同種移植に対する免疫寛容誘導の手段の探求がより求められていたといわれています(現在、超急性拒絶反応に関しては、その原因となる異種抗原をノックアウト(消失)した遺伝子改変ブタを使用することによって回避に成功しています)。夢の医療と考えられていた異種移植と免疫寛容の誘導が現在では移植免疫学や科学技術等の進歩によって“実践的かつ有力な解決策”と見なされ、臨床応用を視野に入れた研究が世界中で行われるようになってきています。『異種移植とはなにか』の著者、デイヴィット・クーパーは、異種移植における人類の挑戦を次のように述べています。

 一つの免疫障壁を乗り越えた時にはもう一つが待ち受けている(略)。たまねぎの皮をむくようなものだ。一つむき終えると、すぐに次が現れてくる。さらに(略)苦労してやっと一つの皮をむくと、そこにはおそらく、涙をともなういくつもの皮が残っている」(p.91)

 免疫システムという、絶妙なバランスで調和を保っているものに何か手を加えるということは、ただバランスを崩すだけでなく、それがきっかけで思わぬドミノ倒しを引き起こす可能性があります。そしてそれを再び正常な状態に戻すためには、崩れたドミノを一つ一つ立て直すような緻密な作業が要求され、それは想像以上に苛酷な道のりとなるでしょう。免疫寛容誘導の挑戦を振りかえってみても、目の前の問題を解決すればまたどこかにほころびが生じるといった過程を繰り返しているようにも思えます。ですが、この一進一退の積み重ねによってここまで医療は発展してきました。今後の異種移植の動向について、アメリカ・ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院で異種移植の経験がある北海道大学の広瀬貴行先生は次のように見解を述べています。

 「ブタのヒトへの心移植は研究特例承認によるもので、今後こういったことが続くかどうかはまだ不透明です。我々の研究では、異種抗原である主な3種類の遺伝子を取り除いたブタ(TKOブタ)が恐らくヒトにとって最適だと考えられていますが、サルでの臨床がうまくいっておらず、ヒトでの臨床応用に進めていません。(ブタの心移植に先立って行われたニューヨーク大学やアラバマ大学における)脳死患者への異種移植は、そういったジレンマから行われた実験的な試みだったのではないかと私は解釈しています。ただ、脳死患者では長期生着の評価ができず、状態も不安定なので、やはりTKOブタからサルの移植で長期生着をみるというのがヒトへの臨床応用に進むための必須条件であるかと思います」

 今、医療の時流はどこに向かっているのでしょうか。時代の価値観は研究の未来を大きく左右します。最近特に注目を浴びた異種移植を取り巻く空気は、今後の試みと報道によるその社会的影響次第で追い風にも向かい風にもなるでしょう。末期臓器不全において、異種移植と免疫寛容の誘導はまさに聖杯そのものです。ドナー不足と移植に伴う拒絶反応をそれぞれ解決すべく、移植を待つ患者さんの未来のため、未知の医療に対する挑戦は続きます。

*1:ベビー・フェイ 1984年10月26日にアメリカのロマリンダ大学で実施された、ヒヒの心臓を移植された生後間もない女の子の呼称。生まれつき心臓に異常があり、左心室形成不全症候群と診断されていました。免疫抑制剤シクロスポリンの登場、また、乳児は大人に比べて免疫機能が十分に発達していないことから拒絶反応が起きにくいのではという期待もありましたが、手術後20日目になって容体が急変し、死亡しています。歴史に残る画期的な手術だと称賛がある一方、道徳面や倫判面における批判や疑問も多く、議論は専門家のみならず一般人にまで広く及びました。

*2:聖杯 旧約聖書により伝承される聖遺物の一つ。ゴルゴダの丘でキリストが槍で突かれた時に流れた血を受け止めたと言われています。この聖杯に注がれた飲み物を飲み干すとあらゆる傷や病が治り、長命と若さも手に入れられるという伝説があり、インディ・ジョーンズやダヴィンチ・コードなど、さまざまな作品に登場しています。

考資料

  • 山内一也 『異種移植 21世紀の驚異の医療』 河出書房 1999
  • デイヴィット・クーパー、ロバート・ランザ 山内一也訳 『異種移植とはなにか 動物の臓器が人を救う』 岩波書店 2001
  • History of xenotransplantation, Xenotransplantation Vol.12, Issue2, 2005
  • 筒井康隆 『心狸学 社怪学』 講談社 1969
  • 小林泰三 『人獣細工』 角川書店 1997
  • 異種移植は本格化するのか | m3.com
  • 異種移植とは 動物の生きた臓器などを人に移植: 日本経済新聞 (nikkei.com)
  • 東條英昭,異種移植用遺伝子改変ブタの開発の動向と展望,日獣生大研報 64, 1-9, 2015
  • MIT Tech Review: 世界初のブタ心臓移植患者、 ウイルス感染が死亡の一因か (technologyreview.jp)
  • 日本経済新聞 1992/06/29夕刊、1997/09/17夕刊
  • 移植希望者数の推移|日本臓器移植ネットワーク (jotnw.or.jp)
  • 山田和彦・佐原寿史・関島光裕、夢ではなくなった異種臓器移植と免疫寛容誘導戦略の重要性 : 独自の免疫寛容誘導療法による異種移植の臨床応用への試み、Organ Biology, vol 25 no.2, 2018
  • 聖杯、キリストの血を受けた聖遺物、その行方。語り継がれる伝説とは – waqwaq (waqwaq-j.com)
  • 豚の心臓を移植した初めての男性、死因は豚特有のウイルスだった可能性【Gadget Gate】 – PHILE WEB
  • 動物臓器の人への移植に安全指針策定へhttps://www.yomiuri.co.jp/science/20220822-OYT1T50101/
  • 遺伝子操作したブタの心臓、脳死患者に移植 研究の一環で(1/2) – CNN.co.jp
  • 輸血の歴史|大阪府赤十字血液センター|日本赤十字社 (jrc.or.jp)
  • 脱蛋白異種骨の耳鼻科領域に於ける使用経験 耳鼻咽頭科展望 1966, vol.9. no.1
  • 下田貢,窪田敬一,アレルギー免疫治療の最新の進歩 移植免疫の進歩 ─臓器移植を中心に─,Dokkyo Journal of Medical Sciences 41(3):325-328, 2014
  • 落合武徳,磯野可一,臓器移植における拒絶反応の抑制,千葉医学 73: 133-144, 1997


奥村 康 (おくむら こう)先生
好きなもの:ワイン、赤シャツ、カラオケ(そして神戸)
千葉大学大学院医学研究科卒業後、スタンフォード大・医、東大・医を経て、1984年より順天堂大学医学部免疫学教授。2000年順天堂大学医学部長、2008年4月より順天堂大学大学院アトピー疾患研究センター長、2020年6月より免疫治療研究センター長を併任。 
サプレッサーT細胞の発見者、ベルツ賞、高松宮奨励賞、安田医学奨励賞、ISI引用最高栄誉賞、日本医師会医学賞などを受賞。
垣生 園子 (はぶ そのこ)先生
好きなもの:エビ、フクロウ、胸腺
慶応義塾大学医学部卒業後、同大学院医学研究科にて博士号取得。同大学医学部病理学教室助手、ロンドン留学等を経て、1988年に東海大学医学部免疫学教室初代教授に就任。2008年より同大学名誉教授、順天堂大学医学部免疫学講座客員教授。
第32回日本免疫学会学術集会 大会長、 日本免疫学会理事(1998-2006)、日本免疫学会評議委員(1988-2007)、 日本病理学会評議委員(1978-2007)、日本学術会議連携会員
内藤記念科学振興財団科学奨励賞(1989)、 日本ワックスマン財団学術研究助成賞(1988)、日本医師会研究助成賞(1987)を受賞
谷口 香 さん(文・イラスト)
好きなもの:お菓子作り 大相撲 プロテイン
学習院大学文学部史学科卒業
同大学大学院人文科学研究科史学専攻博士前期課程中途退学

学生時代は虫を介する感染症の歴史に忘我する。とりわけツェツェバエの流線型の外見の美しさとは裏腹の致死率ほぼ100%(未治療の場合)という魔性の魅力に惹かれてやまない

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