胸腺とT細胞と私(前編)

2023.01.04

T細胞の母校、胸腺

研究の世界には基礎研究と応用研究という言葉があります。意味は言葉のままですが、応用研究が、例えば「肝移植後の免疫寛容の誘導」といった具体的な問題の解決を目標とすることに対し、基礎研究は、「抑制性T細胞の働き」「B細胞の役割」といった特定の理論や現象などへの理解を深めることを目的としています。そのため、基礎研究は非実用的ですぐに役に立たない研究だと揶揄されることがあります。そんなこともあってか、数年前、日本の基礎研究費の削減が大きな話題になりました。それは、すぐに社会の役に立つ応用研究をより重視し、それに賛同する人々が少なくないということを意味しています。基礎研究費の削減が引き起こす日本の基礎科学力の低下は、将来の日本人ノーベル賞受賞者を激減させると警鐘を鳴らす知識人もいます。

この免疫寛容プロジェクトでは、上述した「肝移植後の免疫寛容の誘導」を目指す応用研究を行っていますが、このコラムで度々登場する垣生園子先生は免疫学における基礎研究者であり、免疫寛容において最も重要な細胞であるT 細胞が成熟する場所、「胸腺」の研究に長い間携わってきました。新型コロナウイルスの流行によって抗体や免疫細胞という言葉は周知されたように思いますが、胸腺については一般的にはまだまだ馴染みの薄い臓器ではないでしょうか。ここでは、「T細胞の学校」とも称される胸腺を長年専門とされてきた免疫学者である垣生先生の研究人生について紹介するとともに、基礎研究の重要性についても考えてみたいと思います。

胸腺って?

近年、幼児虐待に関する新聞記事の中で「胸腺の萎縮」という言葉が使われるようになりました。これは、虐待の証拠が顔や身体の傷やあざといった表層的なものだけではなく、司法解剖の際に判明する特定の臓器、つまり胸腺の異常も虐待の重要な裏付けとなっているためです。健康であれば、胸腺は思春期をピークに少しずつ小さくなり、加齢に伴い脂肪に置き換わるという経緯をたどります。そのため、まだ萎縮する段階ではない子どもの胸腺の萎縮は、虐待による強いストレスが原因だと考えられています。

胸腺とは、胸の真ん中で心臓の上にのるように存在している、握りこぶしほどの大きさの臓器です。魚のエラにあたる部分が進化の過程で変化したものだとされ、臓器としてもはるか昔からその存在は認識されていました。しかしその役割はずっと不明で、その機能が発見される60年ほど前まではあまり重要視されてきませんでした。

胸腺が重要な臓器であると認識されはじめたのは、1961年にJ. F. Miller(1931-)らが、胸腺がリンパ球を作り、送り出している機関であるということを発見したことがきっかけでした。それ以降、胸腺から送り出されるリンパ球を、骨髄から産生されるリンパ球と区別して、胸腺の英語名Thymusの頭文字をとってT細胞と呼ぶようになりました。

「胸腺はあまり日本では馴染みがないですが、フランス料理ではリードボーと呼ばれる高級食材です。その料理がタイム(thyme:ハーブの一種)の香りがするのでThymusと名付けられたともいわれます*1」(奥村先生)

ブラックジャックとの出合い

胸腺を研究テーマとする垣生先生が最初に興味をもった病気は、重症筋無力症*2という自己免疫疾患でした。垣生先生は、重症筋無力症の患者の胸腺にT細胞の他にB細胞というリンパ球が存在することを見つけ、自己免疫疾患と胸腺にどのような関係があるのかを研究するためイギリスに留学したのですが、その2年後に帰国した垣生先生が偶然出合ったのが、研究室に置かれていた漫画『ブラックジャック』でした。たまたま手に取った漫画の中で、(無免許)医師ブラックジャックが重症筋無力症の患者に対して、当時ほとんどの医師に馴染みのなかった胸腺を摘出する描写を見つけて感激したといいます。

「1976年ごろの漫画ですが、その頃既に作者の手塚治虫(阪大医学部卒業)がそれを知っていたことがすごいなと思って大好きになりました。胸腺ではどうしてT細胞しか作り出されないのか、逆にどうしてT細胞は胸腺でしか分化しないのかというメカニズムもわからない時代に手塚治虫は漫画で取り上げ、医学における胸腺の重要性を示してくれたんです。それは私の胸腺研究の後押しとなり、とても楽しい夢を描かせてくれました」(垣生先生)

*1 フランス料理であるリード・ボー(胸腺肉)は、下ごしらえの際に臭みをとるためにタイムを大量に用いるらしく、そのため、調理したリー・ド・ボーからタイムの香りがし、このハーブが胸腺の名前の由来になったという説、タイムの花芽の構造が胸腺の割面に似ているからという説などがあります。

*2 日本の指定難病かつ自己免疫疾患の一つ。末梢神経と筋肉のつなぎ目である神経筋接合部が自己抗体によって破壊されることによって脳からの信号が筋肉に伝達されなくなり、筋力が低下する、疲れやすくなるなどの症状が現れる病気。女性にやや多く、約30,000人の患者がいるといわれています。胸腺腫を合併することが多く、胸腺摘出が治療といわれています。

考資料

  • 耳寄りな心臓の話(第41話)『心臓からタイムの香りが』 |はあと文庫|心日本心臓財団刊行物|公益財団法人 日本心臓財団 (jhf.or.jp)
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Jacques_Miller
  • https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20210928_n01/
  • 重症筋無力症について | メディカルノート (medicalnote.jp)

奥村 康 (おくむら こう)先生
好きなもの:ワイン、赤シャツ、カラオケ(そして神戸)
千葉大学大学院医学研究科卒業後、スタンフォード大・医、東大・医を経て、1984年より順天堂大学医学部免疫学教授。2000年順天堂大学医学部長、2008年4月より順天堂大学大学院アトピー疾患研究センター長、2020年6月より免疫治療研究センター長を併任。 
サプレッサーT細胞の発見者、ベルツ賞、高松宮奨励賞、安田医学奨励賞、ISI引用最高栄誉賞、日本医師会医学賞などを受賞。
垣生 園子 (はぶ そのこ)先生
好きなもの:エビ、フクロウ、胸腺
慶応義塾大学医学部卒業後、同大学院医学研究科にて博士号取得。同大学医学部病理学教室助手、ロンドン留学等を経て、1988年に東海大学医学部免疫学教室初代教授に就任。2008年より同大学名誉教授、順天堂大学医学部免疫学講座客員教授。
第32回日本免疫学会学術集会 大会長、 日本免疫学会理事(1998-2006)、日本免疫学会評議委員(1988-2007)、 日本病理学会評議委員(1978-2007)、日本学術会議連携会員
内藤記念科学振興財団科学奨励賞(1989)、 日本ワックスマン財団学術研究助成賞(1988)、日本医師会研究助成賞(1987)を受賞
谷口 香 さん(文・イラスト)
好きなもの:お菓子作り 大相撲 プロテイン
学習院大学文学部史学科卒業
同大学大学院人文科学研究科史学専攻博士前期課程中途退学

学生時代は虫を介する感染症の歴史に忘我する。とりわけツェツェバエの流線型の外見の美しさとは裏腹の致死率ほぼ100%(未治療の場合)という魔性の魅力に惹かれてやまない

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