胸腺とT細胞と私(後編)

2023.02.01

胸腺の役割の発見

垣生先生がブラックジャックに感銘を受けてから今日まで、かつてはまるでわからなかった胸腺の機能や役割が次々と明らかになり、胸腺が免疫機能の司令塔とも呼ばれるT細胞の成熟地であることは医学研究者の誰もが知るところとなっています。そもそも胸腺が免疫にとって非常に重要であることが認識されたのは、ある2つの偶然が重なったことがきっかけでした。

1つは、胸腺に白血病を発症するマウスの研究をしていたイングランドのJ. F. Millerらのグループが、治療目的でマウスの胸腺を除去していたところ、胸腺を除去したマウスがとても感染に弱く、すぐに死んでしまうということを発見したことです。もう1つは、そのほぼ同時期のスコットランドで、突然変異による毛のない裸マウス(ヌードマウス)が生まれたことでした。ヌードマウスはやがて複数の研究者によって感染に脆弱であることなどが報告され、そののち、ヌードマウスには胸腺が欠如しているということが見出されました。これらの発見により、胸腺はリンパ球を作り、そして送り出すという非常に重要な役割をもった臓器であることが認知され、免疫システムにおける胸腺の重要性が広く知られるところとなりました。

「なぜ胸腺がないとマウスは感染に弱くなるのか。胸腺が作っているT細胞は骨髄が作るB細胞等の他のリンパ球とは違った顔つき、違った役目をすることがだんだんわかってきました。そうすると次の疑問は、胸腺がT細胞を作る特別な臓器ならば、B細胞を作る骨髄と何が違うのか、ということでした。これを明らかにすれば、重症筋無力症等のさまざまな免疫疾患の治療も可能になるはずだと思ったんです。そこで、更なる胸腺の研究を行うため、当時世界のトップを走っていたイギリスに勉強に出かけました。それ以後、これを追いかけて30余年、私は楽しい、しかし、時々辛い研究人生を送りました。幸い定年間近にその答えを得ることができ*3、“胸腺ありがとう!”とお礼を言って、胸腺の研究に一終止符を打ったんです」(垣生先生)

現在までに、胸腺内では、自分の体の成分を攻撃するT細胞や外敵に反応しないT細胞は排除される仕組みになっていることがわかってきています。胸腺はT細胞を成熟させるだけでなく、自分の体にとって有益なT細胞を育てる「教育の場」でもあると言われています。この教育によって、私たちの体の中の免疫細胞は自分自身を攻撃することなく、免疫機構を正常に保ち、私たちの健康に寄与してくれているのです。

医療発展のための両輪

欲しい情報が特に苦労することなく簡単に手に入る今日、溢れかえる山のような情報に踊らされることなく、目の前で起こった現象に純粋に興味を抱き、常に自分の目で見たこと、感じたことに真剣に向き合うよう学生を指導する垣生先生。このプロジェクトの肝である抑制性T細胞の研究においても、先生は基礎研究が根本的に非常に重要であると考えています。

「胸腺には、自分の体の成分を攻撃するような(自己反応性)T細胞を処分する機構があります。その仕組みには2つあり、一つは自己反応性T細胞の分化を停止させ死滅させる仕組みです。もう一つは、自己への反応を制御する機能をもったT細胞を新たに教育し生み出す仕組みです。胸腺のもつ免疫制御のメカニズムを応用することで、現在の免疫寛容誘導の研究に貢献できるはずだと期待しています」(垣生先生)

なかなか治療と結びつかず、すぐに臨床応用できないというのは、患者さんを一刻も早く助けたいと考える臨床研究者にとっては魅力に欠ける分野かもしれません。ですが、現在も流行を続けている新型コロナウイルスに対抗する武器となったmRNAワクチンは、新型コロナウイルスの発生より20年以上も前から培われてきた基礎研究によって考案されたものでした。本来なら開発に何年かかっても不思議ではないワクチンがこんなにも早く臨床応用できた背景には地道な基礎研究の存在がありました。目の前の患者さんのためのサイエンスだけでは未知の病に対して医療は後手に回ることしかできないでしょう。基礎研究の重要性が再認識されつつある今、多くの研究者があらゆる角度からさまざまな研究に挑戦し続けることが重要であり、胸腺の研究も含め、今後の医療の進歩と発展に基礎研究は欠かすことはできません。

*3 骨髄の幹細胞が胸腺内に入り、その微小環境を形成する細胞の遺伝子制御機構によって、初めて自己・非自己を識別し反応できるT細胞へと分化成熟していくプロセスを解明。この研究により、重症筋無力症などの自己免疫疾患は、その胸腺内でのT細胞成熟のプロセスの故障で誤って自己抗原に反応してしまうT細胞が作られることが一因だと現在では考えられるようになっています。

考資料

  • 耳寄りな心臓の話(第41話)『心臓からタイムの香りが』 |はあと文庫|心日本心臓財団刊行物|公益財団法人 日本心臓財団 (jhf.or.jp)
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Jacques_Miller
  • https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20210928_n01/
  • 重症筋無力症について | メディカルノート (medicalnote.jp)

奥村 康 (おくむら こう)先生
好きなもの:ワイン、赤シャツ、カラオケ(そして神戸)
千葉大学大学院医学研究科卒業後、スタンフォード大・医、東大・医を経て、1984年より順天堂大学医学部免疫学教授。2000年順天堂大学医学部長、2008年4月より順天堂大学大学院アトピー疾患研究センター長、2020年6月より免疫治療研究センター長を併任。 
サプレッサーT細胞の発見者、ベルツ賞、高松宮奨励賞、安田医学奨励賞、ISI引用最高栄誉賞、日本医師会医学賞などを受賞。
垣生 園子 (はぶ そのこ)先生
好きなもの:エビ、フクロウ、胸腺
慶応義塾大学医学部卒業後、同大学院医学研究科にて博士号取得。同大学医学部病理学教室助手、ロンドン留学等を経て、1988年に東海大学医学部免疫学教室初代教授に就任。2008年より同大学名誉教授、順天堂大学医学部免疫学講座客員教授。
第32回日本免疫学会学術集会 大会長、 日本免疫学会理事(1998-2006)、日本免疫学会評議委員(1988-2007)、 日本病理学会評議委員(1978-2007)、日本学術会議連携会員
内藤記念科学振興財団科学奨励賞(1989)、 日本ワックスマン財団学術研究助成賞(1988)、日本医師会研究助成賞(1987)を受賞
谷口 香 さん(文・イラスト)
好きなもの:お菓子作り 大相撲 プロテイン
学習院大学文学部史学科卒業
同大学大学院人文科学研究科史学専攻博士前期課程中途退学

学生時代は虫を介する感染症の歴史に忘我する。とりわけツェツェバエの流線型の外見の美しさとは裏腹の致死率ほぼ100%(未治療の場合)という魔性の魅力に惹かれてやまない

関連する記事

コラムTOPへ戻る